TOKYO FOOTBALL STORY

TOKYO FOOTBALL STORY
朴 世訓 / FC KOREA(東京1部)

TOKYO FOOTBALL STORY 2020

朴 世訓/FC KOREA

「FC KOREAで過ごした濃密な時間」

東京都社会人サッカーリーグ2部のFC KOREAに所属するMF朴 世訓(パク セフン)。立命館大学卒業後にFC KOREAに入団し、以降、全国社会人サッカー大会優勝、関東1部リーグ優勝など輝かしい実績を残してきた。黄金期だった当時を振り返ってもらいつつ、FC KOREAというチームの存在意義を聞いた。
(※インタビューは2020年12月に実施)

INTERVIEW(1/2)

「全社優勝」は夢に一步近づいた。

Q.まずは2012年に地元東京で開催された全国社会人サッカー大会(全社)を振り返ってもらいたい。1回戦ではヴァンラーレ八戸(2-1)に勝ち、2回戦ではFC大阪(1-1・PK5-4)、準々決勝では海邦銀行(3-0)、準決勝ではバンディオンセ加古川(3-0)、決勝では福島ユナイテッドに延長戦の末にご自身の決勝点で1-0で勝って優勝をつかんだ。そうそうたる相手に勝ち進んだが、あの時、優勝ができたのはどんなところに要因があったと思うか。

「正直、勢いで優勝できたというのが本音で、リーグ戦もそのシーズンは関東1部で7位と振るわなかった。でも7月の全社関東予選の決勝で、その年の関東1部を優勝したSC相模原さんに一発勝負で勝って本大会の出場権を獲得できた。ゲーム内容も良くて、あれからチームが少しずつ上向いた。そこから10月の本大会までの期間に黄永宗選手兼任監督が修正をかけて、さらに東京開催というアドバンテージもあったし、すべてがうまく噛み合ってとんとん拍子で優勝までいけた」

Q.確かに勢いは大事だと思うが、それだけでは日本一にはなれなかったはず。それ以外の要素は。

「あの時はスタメン11人がそれぞれのポジションにしっかりと揃っていた。控えにも流れを変えられる選手が何人かいたし、『個』に関していえば他のチームに劣っていなかったと思う。戦術に関しても難しいことはせずに素早く展開して、個人で勝負を仕掛けて、カウンターで点を取る。それを徹底できたのが勝因かなと思う。あとは守備が強かったし、プレスに関しても1試合通して疲れない体力も当時はあった。初戦をいい形で勝って、2回戦ではFC大阪に下馬評を覆してPK戦で勝ったことで勢いに乗って、準々決勝、準決勝はそれほど苦労せずに勝てた。2回戦のFC大阪戦が大会のターニングポイントだったと思う」

Q.勝ちパターンが大会中に出来上がった。

「そうだと思う。まずは失点しないことが第一。前半は0-0で折り返せればいいという考えで、後半どうにか1点を取る。あの大会は全試合で先制点が取れたし、一発勝負の中で相手に焦りを与え、相手に本来の力を発揮できない状況を作ることができた」

Q.味の素スタジアムで福島ユナイテッドを相手に迎えた決勝はどうだったか。

「決勝に関しては大黒柱のFW金載東さんが累積で出場できなくて、戦力的にはだいぶ落ちる中、前半を0点で終えることができた。ほとんどの時間を守備に費やしたが、0点に抑えられたし、途中で相手が退場者を出したことで最後は優位に立てた。11対11のままで進んでいたら、おそらくやられていたと思う」

Q.全国社会人大会で頂点に立った時はどんな気持ちだったか。

「大学を卒業してKOREAというクラブに入団した時は漠然としていて、社会人サッカーやクラブについても全く知らないまま入ったし、プロへ進むためのステップアップと考えていた。それがいつしかこのクラブの先輩方やマネージャーのチャノさんの熱い想いに動かされて、FC KOREAを在日の受け皿としてひとつでも上のカテゴリーに上げたい、JFLに昇格させたいという気持ちでやるようになった。そういった想いが全社優勝につながったので、日本一になった時は夢に一歩近づいた感じだった」

朴 世訓/FC KOREA朴 世訓/FC KOREA朴 世訓/FC KOREA

関東王者の目標も達成。あの時は本当に強かった。

Q.全社優勝の翌年(2013年)はGK朴一圭(現・J1横浜M)も加入して、関東1部リーグでも優勝。年間の王者として総合的な力も示せた。

「全社を優勝した年は『全社枠』で全国地域決勝大会(JFL参入戦)にも出て、今はJ3の今治さんにも勝って、決勝ラウンドまであと一歩のところまで行ったが、勝ち抜けなかった。やはり全社の勢いだけでJFLまで勝ち進むには限界があった。それで、チームとしてはやはり関東リーグで年間王者になって、本当の実力をつけて参入戦に出ることを目標に掲げた。そして、その目標に向かって優勝できた。あとはGK朴一圭が入って、もう一人のGK康成宇もうまかったし、その2人が練習にくると普通のシュート練習やシュートゲームをしても入らない。練習の質がとにかく高かった。KOREAは決してうまさはないが、練習から激しくプレーするし、プレスの強度もあるし、シュートも簡単に入れさせない。普段の練習の形を試合でそのまま出せたことで、結果につながった」

Q.優勝したシーズンはチームとしても個人としても自信を持ってプレーができていたか。

「開幕当初は手探りのところもあったが、途中からは自信を持てるようになった。その年もターニングポイントがあって、東京23さんとの後期の試合で前半にうちが退場者を出してPKも与えて0-1で折り返した。でも後半に一人少ない状況でありながら、最後のラストワンプレーで得点して結局3-2で勝った。あの勝利で優勝に望みをつなげたし、そのままの勢いで最終節に勝って優勝を決めることができた。あの年は勝負強さがあったし、本当に強かった」

Q.社会人になってからサッカーはうまくなったか。

「技術的には大学時代とそこまで変わらないが、ひとつひとつのプレーの判断、質、速さは間違いなく上がった。色々な先輩方、特に黄永宗さん、金載東さん、尹星二さんはJFLでの経験のあるプレーヤーだったので、多くのことを学べた。あとは国体・東京選抜で三菱養和の3人に出会えたこと。加藤宏輝、岡元思帆、本橋良太の3人に出会えたのが衝撃的で、彼らのプレースタイルが自分は初見だったので、こんなサッカーをする選手らがいるのかと。25、26歳くらいでまだやったことのないサッカーに出会えたことで、視野が広がったし引き出しも増えた」

Q.やはり三菱養和の3人のプレーは違った。

「全然違う。特に本橋はボールが常に身体の中心にあった。自分らの場合だとバランスを崩しながらボールを蹴ることや倒れながら蹴ることもあるけど、彼はまずない。常に真ん中にボールがあってどんなタイミングでも的確にパスを出せるし、体も強かった」

Q.当時のKOREAは戦術的にはどんなサッカーだったか。

「黄永宗さんが監督の時はまずは守備からというサッカー。前からのプレス、ここでボールを取り切るということを徹底していた。攻撃に関しての練習はほとんどなくて、チームでどう崩すかというよりかは自分で考えてプレーする。まずは失点せずに攻撃は1点でいい。その1点を取れる選手が各ポジションにいたので、監督のやろうとするサッカーができていた。KOREAはポゼッションでマイボールの時間を増やすことはできないので、クリアボール、セカンドボール、とにかく球際で勝ってマイボールの時間を増やした。もちろん技術力のある選手もいたので、黄永宗さんのサッカーが噛み合っていた」

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PROFILE

朴 世訓 MF/FC KOREA

1985年生まれ。大阪市出身。立命館大学時代は総理大臣杯で優勝し日本一を経験。2009年に当時関東2部のFC KOREAに入団し、関東1部昇格や全国社会人サッカー大会優勝、関東1部リーグ初優勝に貢献。華麗なドリブル、スピード、テクニックでクラブのエースとして長く活躍し、2011年からは東京都国体選抜にも選出。2013年には地元東京で開催された国民体育大会で10番をつけて準優勝に貢献した。

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